一大決戦のはずだったが、決戦までには持ち込めず、幕府軍はずるずると負けてしまうという、なんともしまりのない戦さ。以来日本は薩長の天下となった。鳥羽・伏見の戦い - Wikipedia: "鳥羽・伏見の戦い(とば・ふしみのたたかい, 慶応4年1月3日-6日(1868年1月27日-30日))は、戊辰戦争の緒戦となった戦闘である。戦いは京都南郊の上鳥羽(京都市南区)、下鳥羽、竹田、伏見(京都市伏見区)で行われた。
3日夕方には、下鳥羽付近で街道を封鎖する薩摩藩兵と大目付の滝川具挙の問答から軍事的衝突が起こり、鳥羽での銃声が聞こえると伏見でも衝突、戦端が開かれた。このときの京都周辺の兵力は新政府軍の5,000名に対して旧幕府軍は15,000名を擁していた。しかし旧幕府軍は狭い街道での縦隊突破を図るのみで、優勢な兵力を生かしきれず、新政府軍の弾幕射撃によって前進を阻まれた。鳥羽では総指揮官の竹中重固の不在や滝川具挙の逃亡などで混乱し、伏見では奉行所付近で佐久間近江守信久や窪田備前守鎮章ら幕将の率いる幕府歩兵隊、会津藩兵、土方歳三率いる新選組の兵が新政府軍(薩摩小銃隊)の大隊規模(約800名)に敗れた。"
いにしえの昔から大阪から都に攻め込むという戦は分が悪いと決まっている。神武天皇も同じことをしたが負けてしまって、一旦和歌山まで南下して吉野経由攻め上るという作戦に変更して勝利した。幕府軍も関ヶ原で戦うべきだったな。
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